yusukeshibata.com -柴田祐輔-/statement アーティストステートメント
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2010.10.30
「異邦人としての日本人」

かつて土地に根付き地域とともに生活していた私達も、今では土地から離れ会社とともに生きるようになり、それとともに日本の風景は劇的に変化していった。知らない場所に知っているような風景の連続。終わらない営業は終わらない風景を産みだした。現代社会において無駄は省かれるものであり、効率の向上は無条件に良い事だとされる。利潤追求の為に盲目的に加速していくスピードは操作不能なべらぼうな風景を生んだ。本来、未整理であるはずの混沌とした現実世界は訳の分からない物や都合の悪い物などだらけ。だがそれらが日本社会に於いてなかった事になっていたり、見えていても見ていないことになっていたり、理解できない物は避けられてきたようである。つまりは自分たちの都合のいい物だけが存在し、それだけで世界が成り立っているかのような錯覚が実際の現実の風景を作っている大きな要素だと考える。出現するピカピカきれいな塗装。きれいな風景の表面。覆い隠される風土の歴史。

しかしながら日本人である私にとって、日本に広がる風景はそれが自分にとって根源的な意味を持ち、違和感を伴う表面的な現代社会の風景も日々の生活の中、それらは当たり前ものとして均され、慣らされてしまう。日々の生活の中、疑う事の出来ないわたしたちの生活背景である、日本の風景。美術に関わる事でそれを異邦人としての視点で日本社会を丁寧に見つめ直す事が出来ないだろうか。

都合のいい社会のニーズに応える為に美術が存在しているのではない。複雑にある、コントロールできない現代社会に深くコミットする事の出来る有効な方法として美術がある。それは社会をうまくコントロールする為のものではなく、深く対峙する事の出来るツールである。美術が社会の需要と供給の利害関係から遠く離れ、利潤追求の大きなサイクルを俯瞰し、時代や社会に回収されず、先入観に捕われないクリアーな視線を持ちうる時、初めて捉えるべき対象さえもを認識できない私たちにとっての当たり前の風景と向かい合う事が可能になる。社会にとって『関係のない』立ち位置からしか見えてこない、切実な社会への眼差しと問いがそこには確かにある。私は作品によって、社会にとっての『分からないもの』や山積みの問題を単に理解や解決へと導くのではなく、美術にしか切り開けない、見えてこない未開の未解決にある領域を可視化し、混沌とした世界の分からなさと私たちの切実なやり取りが生む、確かな鋭い世界認識とそこで更新される新しい価値観の可能性を信じたい。そして、その先に見える切実な救いのようなものへ向かいたいのです。

重要なのは美術が確かに人々の心の琴線に触れ、理解ではなく作品を体験してもらい、しっかりと作品を届ける事。私は美術が必要とされず、関係のないものとして捉えられているこのような日本社会にこそ、美術による社会への有効なアプローチが可能なのだと捉えています。時代とともに深く呼吸しながらも社会を客観的な視点で捉えつつ、それを凌駕する美術の魅力的なアプローチでもって日本社会に深くコミットしていきたいと考えています。

2010.02.17
仮定ビートに寄せて

世界がつじつまを合わせ成り立っているその様、合っているつじつまそのものについて。代えの効く風景、世界がこうでなかった可能性について。そして、目の前の現実が今ここにあるという事実、その強度、絶対性について。世界はこうでなくてもよかった。

きれいな表面がつじつまを合わせながら繋がっていき,その強引ながらも合っているつじつま感にその表面はするりと強く意識できない背景へとシフトされる。世界がサンプルの仮定の連続で構築される。突然出現した仮定のビートが世界を作る。世界は重要ではない風景、その仮定の連続で出来ている。はい、世界が出来たって感覚。

知らないのに知っている風景。行った事ないのに知っているような風景の連続。ほかのどこでもないその場にいる感覚をロストしてしまった時、世界がいつも私たちのイメージ内である事に気づかされる。世界は私たちが思い描いた断片の強引なつじつま合わせの連続によって広がっているのだ。私たちの知らないところで同時多発的に起きる世界が、強引なつじつま合わせでジョイントし、世界が作られて行く。

圧倒的な普通の風景。ありふれた普通の風景のそのありふれ方、そして、ありふれているが故に見つめるべき対象さえもを喪失した、その盲目さに興味を抱いているのです。

知らない場所に知ってる風景、合っているつじつま。唐突に出現するイメージ。 ほら、俺たち照らされてるぜ。

2009.06.15

私の作品は現実世界の曖昧さや不確かさについて言及しています。そして、それらの作品はあらかじめリアリティーの失われた世界で生きる私たちの獲得しうるリアリティーの希求を目的としています。

私たちが生活するあらゆる場面が無意識にライティングされた演出空間であるように、モデルハウスの完成予想図(CG)の違和感がそのまま現実としてそこにあるように、ラブホテルの窓がその形を模したイミテーションであるように、私たちの現実世界は先行するイメージの再現にあるようです。

その違和感までもが精密に再現された圧倒的な風景を目の前に、何でも現実になりうる可能性を知り、現実の曖昧さ、危うさ、その不確かさに気づかされます。それと同時に、それらが実際に現実のものとして存在し、現実を構成しているという私たちにとっての無条件な絶対性に戸惑わされるのです。

しかし、これらは普段の私たちの生活で背景にしかすぎず、よく目にする風景を当たり前の事としてとらえている為、強く意識する事がありません。しかし、無意識のうちにこれらの圧倒的な影響下にいるのも事実です。私はそれらを作品として意識化する事で、私たちが生きているこの世界を丁寧にひも解き、この無意識のいや、無意識にならざるを得ない圧倒的な演出のパワーに迫りたいのです。

社会への啓蒙や物事の是非を問う事には興味がありません。時代とともにそのニーズに応じながら変容していく価値観に取り込まれない、 不確かな確かさを成立させている無意識の演出の強度にこそ興味を抱いているのです。