yusukeshibata.com -柴田祐輔-/statement アーティストステートメント
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2019.4.19

私はこれまで、何か嘘臭さや白々しさの気配の様なものを手掛かりに、現実世界の虚実を横断するような、もしくはその境目を極めて曖昧にしてくれるような存在や瞬間を取り上げ、現実世界の不確かさや曖昧さについて言及する作品制作してきました。同時多発的で未完全な現実世界のその全貌を伺う事や、世界の全ての事情に首を突っ込む事などもちろん不可能ですが、それでも私達は知りうる手掛かりや断片をかき集めながら、絶えず世界をイメージし続け、その世界認識を更新し続けていく必要があります。

私達が世界を理解し、そこに生きる意味を見出そうとした瞬間、物語は強い引力をもってその思考のプロセスに無意識にも現れてきます。世界のわからなさと対峙する私達の生きる現場やその態度に目を凝らし、物語が現実世界に及ぼす影響やその構造について考察することが、確かな世界認識の更新にとって今、必要不可欠であるように感じています。

歴史的事象に対する様々な立場や考えに基づく認識の違いとそこに描かれる物語の違いが歴史のバリエーションを生み出すように、どうやら物語は現実の見え方を都合の良いように変えてくれる力を持つようです。しかし、本来の未整理にある、ありのままの現実は語られる主体に依存することはなく、また語られる主体によってその姿を変容させることはなく、虚実を共に携えたままの混沌としてただただ私たちの目の前に存在しているのです。私の興味の中心はこの現実が内包する虚実の揺れ、またありのままの現実と私たちの知っているはずの思い込みの現実との距離、ズレ、にあります。

作品の実践が物語に回収されずにある、現実世界に於けるフィクションとも現実ともつかぬ非決定的な領域を可視化させ、虚実を共に携えたままの混沌として本来の未整理にある現実が持つ、捉えどころの無い良質な分からなさを深く知覚し、それらと対峙していく為のものとして機能することを望んでいます。

2010.02.17
仮定ビートに寄せて

世界がつじつまを合わせ成り立っているその様、合っているつじつまそのものについて。代えの効く風景、世界がこうでなかった可能性について。そして、目の前の現実が今ここにあるという事実、その強度、絶対性について。世界はこうでなくてもよかった。

きれいな表面がつじつまを合わせながら繋がっていき,その強引ながらも合っているつじつま感にその表面はするりと強く意識できない背景へとシフトされる。世界がサンプルの仮定の連続で構築される。突然出現した仮定のビートが世界を作る。世界は重要ではない風景、その仮定の連続で出来ている。はい、世界が出来たって感覚。

知らないのに知っている風景。行った事ないのに知っているような風景の連続。ほかのどこでもないその場にいる感覚をロストしてしまった時、世界がいつも私たちのイメージ内である事に気づかされる。世界は私たちが思い描いた断片の強引なつじつま合わせの連続によって広がっているのだ。私たちの知らないところで同時多発的に起きる世界が、強引なつじつま合わせでジョイントし、世界が作られて行く。

圧倒的な普通の風景。ありふれた普通の風景のそのありふれ方、そして、ありふれているが故に見つめるべき対象さえもを喪失した、その盲目さに興味を抱いているのです。

知らない場所に知ってる風景、合っているつじつま。唐突に出現するイメージ。 ほら、俺たち照らされてるぜ。

2009.06.15

私の作品は現実世界の曖昧さや不確かさについて言及しています。そして、それらの作品はあらかじめリアリティーの失われた世界で生きる私たちの獲得しうるリアリティーの希求を目的としています。

私たちが生活するあらゆる場面が無意識にライティングされた演出空間であるように、モデルハウスの完成予想図(CG)の違和感がそのまま現実としてそこにあるように、ラブホテルの窓がその形を模したイミテーションであるように、私たちの現実世界は先行するイメージの再現にあるようです。

その違和感までもが精密に再現された圧倒的な風景を目の前に、何でも現実になりうる可能性を知り、現実の曖昧さ、危うさ、その不確かさに気づかされます。それと同時に、それらが実際に現実のものとして存在し、現実を構成しているという私たちにとっての無条件な絶対性に戸惑わされるのです。

しかし、これらは普段の私たちの生活で背景にしかすぎず、よく目にする風景を当たり前の事としてとらえている為、強く意識する事がありません。しかし、無意識のうちにこれらの圧倒的な影響下にいるのも事実です。私はそれらを作品として意識化する事で、私たちが生きているこの世界を丁寧にひも解き、この無意識のいや、無意識にならざるを得ない圧倒的な演出のパワーに迫りたいのです。

社会への啓蒙や物事の是非を問う事には興味がありません。時代とともにそのニーズに応じながら変容していく価値観に取り込まれない、 不確かな確かさを成立させている無意識の演出の強度にこそ興味を抱いているのです。