社会を生きる上で私達が共有しているとされる公共空間。延々と続くインフラ整備の整った風景を目の前に、個人としてはとても太刀打ちできそうもない圧倒的な力を感じ、私は無力感を覚えることがある。繰り返される風景に対して僕らはいつも無自覚で無頓着だ。誰も頼みやしないのに歩道のタイルは規則正しく並べられ、知らぬ間に中央分離帯の植木は同じ高さに揃えられているのに、誰もそれを疑うことは出来ないだろう。それはそれらが既に僕らの普通の風景へとすり替わり、あまりに当たり前の物として平然と存在してしまうからだ。政治が僕らの普通を作っている。だが注意深く世界を見てみると、実際の世界はそんなに分かりやすくないし、整理されていないようだ。同時多発的な偶然が複雑に絡み合い、絶妙なバランスで今という瞬間を構成している。路上駐車される車は能動的に風景に加担し、不法投棄される家具や家電はかつてあった文脈をジャンプして風景に衝突する。ongoingでの個展「公共と自由」での試みとは、そんな予測不能な虚実混在するカオスである、ありのままの世界の再演でもあり、そこに立ち上がる風景の可能性を模索することにあった。それはある意味、知らずのうちに奪われた風景を開放し、そこに自由を見出す事でもあっただろう。